必要は発明の母 – necessity is the mother of invention

今日、三陸沖を震源とした地震、ありましたね。結構、揺れましたね。僕は、虎ノ門の路上に立っていました。かなり路上でいろんなものが揺れてました。びっくりしてビルから出てくる人々もちらほら。でも地震単体としては、地震国に生まれ、地震はデフォルトと思って生きてきた人間たちにとってはそんな大したものでもなかった。ただ、地震の震源が三陸沖と知った時、ぞっとした。

そうなんだ、まだ福島第一だって終わっていない。作業のど真ん中。使用済みの燃料を取り出せないまま、ズルズルとちょっとずつ漏らしながら、時間稼ぎをしている。いや、現場で働いている方達に彼らの命をつぎ込んでもらって、時間を稼いでもらっている。そんな現実をどんどん薄めていく、現在の日本社会。いいのかな?二言目には「経済」とかいうけれど、金がいくら残っても、もしこの日本列島で、もう一度3・11と同じぐらいの事故が、福島に限らず、どこかで起こったら、日本の土からは、放射能入ってない食べ物が取れなくなる。それどころか、海や空気を伝って、世界中にバラまかられる。その結果、ただでさえ食糧難が世界で叫ばれているのに、さらに食べるものが制限されることになる。
ところで、『必要は発明の母』という言葉を久しぶりに思い出した。みなさんもよく知っている言葉だと思うけれど、どうも日本語になった時に少しニュアンスが変わっているような気がする。もとになっているのはラテン語だけれど、一番良く知られているのは英語の’necessity is the mother of invention’。それで、この意味というのが、英語では ‘difficult situations inspire ingenious solutions’『困難な状況が独創性に富んだ解決を導き出す』のように、大抵、「困難」とか「難しい状況」的なものが発明を誘発する的なニュアンスになっている。ところが、日本語の注釈の多くが、そのまま「必要に迫られると〜」というのが圧倒的に多い。たかが、「ことわざ」だけれど、これはかなりメンタリティーに差が出ると思う。「困難」というものに対するメンタリティー。元来、日本人は「困難」に直面すると、ものすごくパワーを発揮する民だと思っていたんだけど。歴史から見ても。どうも、ここ数十年で変わってしまったか?でも、そう思いたくもない。
だから!ここでもの申す!まだ日本は諦める必要もない!これからまだ素晴らしい未来はある!ただし!これから、本当に大切なことを何と宣言するかで、将来が決定してしまう。それが、「いのち」なのか?それが、目先の「経済」なのか?(経済、経済って吠えて、それを原発稼働理由にしている人は、同胞を信じていないと思う。そして目先の利益を気にしている。または自分が我慢したくない人たち。)

同胞を、この国の民を、本当に能力の高い素晴らしい人間だと思っているのなら、たとえ困難が待っているとしても、たとえ少しの間は大変だとしても、それをきっと乗り越えられると信じられるはず。それが日本の戦後の奇跡の復興の力だったのでは?その力が世界を震撼させるぐらい驚かせたのでは?だから、その力(勤勉さと協力出来る心と我慢強さ)を持ってすれば、原発をやめても絶対に他のエネルギーの発明や転換が出来るはず!それを世界は待っている!同胞の日本に今住んでいる皆さん!信じようよ、自分たちを。そして、この国の本当の未来を。その気持ちを持って生きたら絶対やれる。
以上。

三上雄己

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>